骨董と聞くと、希少な美術品や高価な古道具を思い浮かべる人も多いだろう。しかしその本質は、単なるものの古さや希少性にとどまらない。骨董の本当の魅力は、自らのまなざしでのみ判断することのできる、言語化できない美しさではないだろうか。
本記事ではサステナブルな暮らしのヒントを探るべく、岐阜県岐阜市に店を構える古物商「本田」を訪れた。店主・本田慶一郎さんへの取材を通じて得たのは、「古いものを選ぶこと=サステナブル」という単純な図式を超えた、生活を豊かにする考え方だ。
岐阜県岐阜市の古物商「本田」
岐阜県岐阜市・醸造会館の1階に、本田慶一郎さんと妻の恵さんが営む古物商「本田」はある。店内に足を踏み入れると、そこには静謐という言葉がよく似合う空間が広がっていた。控えめに照明が灯された店内は、窓から差し込む光が移ろうたびに大きく表情を変える。並べられた品々もまた光に合わせて表情を変える様子を眺めながら、本田さんは骨董品についてこんなことを話した。
「骨董の価値って、それぞれ人によるのではないでしょうか。僕の中では、すごく曖昧なものだと考えています」
辞書には「希少価値あるいは美術的価値のある古道具・古美術品」と記されている骨董だが、その価値を単なる市場価格や希少性で語ることは、本田さんにとって本質的ではないのだそうだ。
「既成の価値観もまた間違いではありません。ただ僕は、それだけでものを選ぶことはできないと考えています。では、何を基準に選ぶのか――それは、そこに確かさがあるかどうかです」
確かさを読み取る力
そこに確かさがあるかどうか。本田さんはそれを「確かな工芸品」と表現した。ここで言う確かさとはもちろん、単に技術的な完成度を意味するのではない。
「僕の言う『確かな工芸品』において大事なのは、その精神性です。使い込まれ方であったり、あるいは直され方も重要だと考えますが、それらを観察すると、ものには使い手の想いのようなものが宿っているように感じられます。無意識に刻まれているその見えない物語こそが、ものに確かさを与えているように思うのです」
さらに本田さんは、その物語を読み取ることこそが骨董の魅力なのだと続ける。
「それを読み取る力は、本来人間に備わっていると思います。人によって解釈は異なるかもしれませんが、その感性の違いもまた面白いですよね」
見えない物語が宿る「確かさ」は、簡単に言葉で説明できるものではない。だからこそ曖昧ではあるが、希少価値に惑わされず、それを読み取ろうと試みることは、自らの内面性を高めることにも繋がるのではないだろうか。
自らの「まなざし」を信じる
ものを手に取り、背景に思いを馳せる時間。それは自分自身を見つめ直す時間でもあると、本田さんは話す。
「気になったものに対して、その魅力を確かめるという作業は、自身の内面を見つめるということと同義だと思います。そしてその繰り返しで、内面というものは次第に磨かれていくのではないでしょうか」
スマホを手にすればすぐに多くの情報が手に入り、そして消費されていくこの時代、自身の内面を通じてものの魅力を見出すという作業は一見非効率的である。しかしそんな時代だからこそ、改めて向き合う必要があるのかもしれない。
「僕もまた、そういうあまり効率的ではないようなことを、ずっとやってきたように思います」。本田さんはそう言って笑った。
現代の消費社会では、ものの価値が表面的な情報に左右されがちだ。そうと分かっていても、既成の価値観に囲まれた世界で、自分の目や自分らしさを保つことはとても難しい。時には流されていることにさえ気がつかなかったりもする。
しかしだからこそ、自身の内面を見つめる時間が大切なのだ。それは言い換えれば、自らの「まなざし」を信じるという作業なのかもしれない。
「まなざしはさまざまで、その角度によってものの見え方が変わります。時に見えないものが見えたりもします。自らのまなざしで即興的に判断していく力、選び取る力は、この世界において必要不可欠な能力なのかもしれません」
ものの価値は市場価値ではなく、自らの「まなざし」によってこそ見出される。それは骨董に限らず、もの選びにおいて大切なヒントとなりそうだ。
薄暗い空間に輝く刺繍画
本田さんに印象に残っているものとの出会いについて尋ねると、「聖アンナと聖母子の刺繍画」について教えてくれた。
「業者市の広い室内会場の、薄暗い一角で、その刺繍画はまるで光っているようでした。実際に金糸銀糸を使用しているから、というだけでない、不思議な美しさがあったのです。そこにはやはり、かつての作り手、使い手の精神性が、確かさとして反映されていたのだと思います」
その当時、中世のキリスト教美術や工芸品に対してとりわけ興味を持っていたわけではないという本田さん。しかしその出会いには、直感的に心を動かされるものがあったのだという。
「必然的な出会いだった」と、本田さんは振り返る。自らの純粋な「まなざし」によって持ち帰ったその刺繍画は、大げさでなく、その後の本田さんの仕事と生活を築くきっかけとなった。
そういえば「本田」の薄暗い店内で、私もまた、不思議と発光しているようなものとの出会いを経験したことがある。かつての誰かの「まなざし」が、時代を経て自らの「まなざし」と交差する一瞬、その直感に従って手にしたものだからこそ、それは時間という枠さえも超え、自分の価値観を更新し得る存在となるのだろう。
骨董が問いかける、これからの暮らし方
大量生産が当たり前となり、トレンドが消費の基準を決めるこの時代に、骨董は私たちに問いかける。
あなた自身が本当に美しいと感じるものは何か?
その価値を、他者でなく自らの「まなざし」で選び取ることはできているだろうか?
私は「本田」を訪れるまで、骨董を選ぶことすなわちサステナブルという単純な図式を描いていた。しかし、それは安直だったようだ。そこにあるのは単なるエコ意識ではなく、ものを介して自分と向き合い、価値観を見直す時間。その内省こそが、持続可能な暮らしの土台になる。
「使わなくてもいいんです」と、本田さんは言った。それは消費至上主義に対するアンチテーゼのようでありながら、現代に生きる私たちの耳に心地よく響く。
「ただ手元にあるだけで自分を高めてくれるようなものってありますよね。僕は器もそういう存在であればいいなと思っています」
本当のサステナブルな暮らしとは、ものの選び方を見直すという行為にとどまらず、ものを通じて自分の価値観を更新し続けることにあるのかもしれない。
骨董を手に取る。なんとなく、良いなと思う。言語化できない曖昧さを恐れない。言語化できなくて、そもそも正解なのだ。ものに宿る精神性を、今を生きる私たちがそれぞれ受け取る。感性と言ってしまえばそれまでだが、それ以上の確信めいたもの、ある種自分自身への自信のようなものを、その時我々は感じることができるだろう。
今、手の中にあるこれを、私はなぜ美しいと思うんだろう?
こうして疑問が生まれた瞬間、骨董は使わずとも、私たちの生活を豊かにし始める。
writer
山田ルーナ
芸術大学の音楽科を卒業後、文筆業を開始。ウェブメディアを中心に、コラムやエッセイ、インタビュー記事などの企画・執筆を行う。良くも悪くも興味の幅が広い性格から、クラシックピアノをバックグラウンドに持ちながらも、実は音楽についての記事はあまり書いたことがない。
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