東京・六本木にある六本木ヒルズに赴くと、巨大な彫刻が目に入る。一見宇宙船かエイリアンのように思えるが、長い棒状の足の間に入って見上げると卵を抱えており、雌の蜘蛛であることが分かる。腹部と胸部に守られている純白の卵は、蜘蛛の母性を象徴するようだ。
10メートルもの大きさがある本作『ママン』の生みの親は、フランス出身で渡米して活躍した作家、ルイーズ・ブルジョワだ。グロテスクだが慈愛を漂わせ、深く記憶に残る作品の生みの親は、一体どういうアーティストなのか。
愛する母と憎むべき父
まずは生い立ちを追ってみよう。ルイーズ・ブルジョワは1911年にパリで生まれ、後にブルジョワ家が購入したパリ郊外アントニーのタペストリー修復工房を兼ねた家で育つ。敷地内には、後年の画集《ビエーヴル川頌歌》の主題となるビエーヴル川が流れていた。
タペストリーは、動かした時に織り込まれた人物や動物の足の部分が擦り切れることが多いという。ブルジョワは、刺繍職人がそういった損傷を修復するためのスケッチを行っていたそうだ。
ブルジョワ生誕時、父親は男子を望んでおり、女性に生まれたブルジョワに冷たくあたったという。また父親は、ブルジョワと7歳しか年齢差がない保母兼教師の女性を愛人として家に住まわせ、ブルジョワが愛する母親も、その歪な関係性を受け入れていたという。母親はブルジョワが20歳の時に急死してしまい、ブルジョワは自殺未遂をするまでに追い詰められ、それまで学んでいた数学に見切りをつけて美術に転向した。
その後のブルジョワは、美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに渡って子育てを行いながら創作活動に励みつつ、アートスクールの講師などとして活動する。父が亡くなったことによる空白期間や認められなかった時期を経て、ブルジョワが広く注目されたのは、1982年にニューヨーク近代美術館で開催された女性彫刻家初の大規模回顧展で、この時彼女は71歳だった。その後も創作のエネルギーは衰えることはなく、元縫製工場だったアトリエで制作を続け、『ママン』を披露した時は80代に入っていた。
創作物から見るブルジョワ
ブルジョワの制作物は絵画、立体、映像、インスタレーションなど多岐に渡る。現代は、アーティストが多様な素材や手法を使って制作するのが当たり前になったが、ブルジョワが活躍した時代のアーティストは、画家は絵画、彫刻家は彫刻に定め、一つの制作を続けることが主流だった。一方ブルジョワは、似た形の造形物であっても、布や金属といった表現方法によって印象が異なる作品をつくり、テーマに合わせて最適な手法を選ぶことができた。
ブルジョワの代表作の一つにインスタレーション『父の破壊』がある。赤黒い照明の中、祭壇か食卓らしきものがあり、上部には肉片や内臓を思わせるオブジェが散乱している。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』をグロテスクに抽象化・立体化したような印象を受けるこのインスタレーションは、夕食で長話をする父親を母と子が食するという、ブルジョワが幼少時に思い描いた幻想が元になっている。
樹脂、木、布などの多様な素材を選び取ってつくられたこの作品は、ブルジョワが石膏やゴムなどで抽象的な造形表現を行った成果が表れている。
また、ブルジョワは優れた文筆家でもあった。1951年に父が他界した後、彼女は精神分析の書籍を読みながら医者の元に通い、治療を受ける際には記録をつけた。現在も治療や夢や記憶の断片が書かれたメモなどを綴った紙束が残されている。自分の感情や記憶を言語化して残すという行為は彼女の創作物と強く結びつき、鋭く痛ましく、時にブラックユーモアを匂わせる言葉は鑑賞者の作品理解を助ける。
素材や表現方法は多種多様だが、ブルジョワが制作時にテーマとしていたのは自分の人生であり、創作は少女時代の傷を癒すためのものだった。彼女が残した文章からは、自分の置かれた環境の理不尽さを感じながら、苦痛や強迫観念こそが創作の源泉であり、作品を輝かせていることに自覚的だったことが窺い知れる。
タペストリー修復工場に立ち戻る
素材を自由に使いこなすブルジョワが、創作にあたって織物や布(ファブリック)を多用したのは、彼女の実家がタペストリーの修復工場だったことに由来するといえそうだ。
ファブリックに関する神話や伝承を挙げてみよう。ギリシャ神話においてテセウスは、恋人アリアドネーから渡された糸玉によって迷宮から脱出する。また同神話のペーネロペーは、夫ラーエルテースの棺衣を織っては解くことで、夫の埋葬と求婚者を退けた。キリスト教の物語では、布がたびたび重要なモチーフとして登場し、中でもキリストがヴェロニカに捧げられたヴェールで顔の汗を拭うと、布に顔の像が転写されたというエピソードはよく知られている。
針は何かを繕いつつ、敵を攻撃するための道具とも見なしうる。糸は人生という迷宮を抜け、解きほぐすものとして機能する。そして針と糸を使ってつくられた布は、生と死の境界を示すものとも考えられる。
また鶴が織物をつくる日本の民話や、織姫が機織りを行う中国の七夕伝説にも見られるように、ファブリックの担い手の多くは女性であり、女性らはファブリックによって傷つけられると同時にアイデンティティを確立している。これはブルジョワが女性であるために父から心ない言葉をかけられ、男性中心主義だった美術界からの評価が遅れたが、苦痛や苦悩も創作の源泉であり、針と糸を武器にすることで自分自身を修復した事実にも結びつくだろう。
子ども時代、ブルジョワはタペストリーのために損傷した足をスケッチしていた。傷ついた身体を修復する作業は恐らく、彼女の創作行為に織り込まれている。またタペストリーは、しばしば神話や民話をモチーフにして物語を閉じ込める。ブルジョワの膨大な創作物も、織り上げられたタペストリーのように彼女自身の世界を内含していると見なしうるだろう。
そんなブルジョワの膨大で壮大な作品群は、2024年9月25日(水)から2025年1月19日(日)の期間、 東京・六本木の森美術館にて開催中の『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』にて確認することができる。
写真=氏名の記載のない写真は森美術館にて中野撮影
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LOUISE BOURGEOIS ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ
会期 2024.9.25(水)~ 2025.1.19(日)
時間 10:00~22:00
火曜日のみ17:00まで
ただし、2024.9.27(金)・9.28(土)は23:00まで、10.23(水)は17:00まで、12.24(火)・12.31(火)は22:00まで
最終入館は閉館時間の30分前まで
会場 森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
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